出ヶ原紙

出ヶ原紙とは

西会津の出ヶ原地区を中心に広く漉かれていた紙の総称であり特に会津藩の御用紙として古くから漉かれ、「出ヶ原」の名自体が紙の代名詞になるほど知られた純楮紙です。大判、中判、小判がありこのうち
大判が藩の御用紙出ヶ原杉原。中判、小判の地紙を含み出ヶ原紙といわれます。出ヶ原の名は昔、伊豆の国から来たものが紙漉きを教えたことに由来しているといわれています。

規格

○ 出ヶ原大判… 九寸八分× 一尺三寸四分 [ 出ヶ原杉原紙( 大障子紙・目録) ]
他の地域からの技術導入により遅くとも1 7 0 0 年代には藩専用紙としての杉原紙が可能になり
藩内唯一の杉原紙となった
○ 出ヶ原中判… 九寸三分× 一尺三寸 [ 民間用障子紙・塵紙]
大判よりも古くから漉かれ、民間で使われた紙規格
○ 出ヶ原小判… 九寸五分× 一尺一寸 [ 民間用障子・塵紙]
大判よりも古くから漉かれ、民間で使われた紙規格

伝説・記録

「若宮八幡縁起」菊池万雄著 近世村落の歴史地理学的研究より引用
康平9 年( 1 0 6 6 ) 、源義家、九門左家( 雲在家、現在の牛尾) の長司、目黒勘次郎秀重の館に宿し
て、その夜秀重に「製紙に便利な水を教えた」とあり秀重この地に紙漉業をおこして会津紙のは
じめとした如くみられる。 
康平9 年1 2 月2 8 日夜九門左家の長司、目黒勘次郎秀重が館に宿す、その夜秀重に重謹しみて
義家公に語って曰く「吾、今近郷の長と雖ども心にみたざるもの一つあり、そは貧なり、吾、源一
族にして勢州員弁郡目黒の郷長なれば目黒と称するも・・・・朝、暮、努力するも此の地辺びにし
て今もって郷なし、吾が故郷目黒は山中なれども製紙業せし今、製紙を望むも水不便にして、思
に任せず、と申しあぐるや義家公「この家より南百歩に至れば自在に水を求め得べし」と・・・・・
「百姓民間営風俗改書上志誌」 出が原の項( 1 6 8 5 年)西会津町史民俗 より引用
一、此所之家職春秋雪之中紙を漉、御年貢上納之足ニ少々仕、此村ニ而中判之のり入らすを漉
初候由ニ而出ヶ原紙と名附、其以後直し杉原大障子、小障子、御鼻紙目録等品々御用紙を漉、
御役ニハ御目録紙」五束一帖ツツ毎年上納仕、此外牧村、堀越村、芹沼村、上野尻村ニ而出原
同前ニ品々御用紙を漉・・・・
「新編会津風土記」巻之三十三1 8 0 3 ~ 1 8 0 9 編纂河沼郡出ヶ原村
□ 土産□ 紙 其品杉原紙に比すれば稍及ばざれども堅強にして久に耐ふ、本組の諸村にて製
するもの多けれども、初め此村より漉出せし故総て出原紙と称す、此村にて今は杉原紙をも製す
巻之九十四陸奥国河沼郡之七
野沢組・・・・・此組ノ諸村多ク紙ヲ漉テ産業ヲ資ク・・・・
出ヶ原村
昔何人ニカ伊豆国ヨリ来テ紙ヲ漉コトヲ教シ故、伊豆原村と云イシヲ、後今ノ字ニ改ムト云、・・・

映像

日本の田舎、西会津町。「越してきました」

日本の田舎、西会津町。「昔ながらの」

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記事


福島民報2018年1月14日

福島民報 WEB版

いなかパイプ いなかマガジン 記事 出ヶ原和紙再生プロジェクト

福島民報2016年1月25日?

福島民友2016年1月25日

福島民報2016年1月23日

 

読売新聞2016年1月23日

2016/03/22執筆者: 横山萌美さま

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